徳島すぎの話(2)歴史と伝統の徳島すぎ

徳島県林業の成り立ち

徳島県では、豊富な木材資源を背景に古くから林業が発達しました。
本県林業が世に知られるようになったのは奈良、平安の頃、
あるいはそれ以前(木頭村誌には白鳳年間[650年頃]に宝田の隆善寺[阿南市]の用材として、
また天正年間、大阪城の用材として搬出されたと言い伝えられているという記述がある)からといわれています。
鎌倉、室町時代には古文書によって木頭材が近畿で使用されたことが確認されています。

 森林林業の歴史をひもとくと、いろいろな出来事が関連しあい、今につながっていることに気づきます。

 藩政時代には、森林は厳しい管理下に置かれました。藩祖の蜂須賀家政は1606(慶長11)年に奥山定書五カ条を定め、森や木を藩主自らが所有することとし、伐採などを厳しく取り締まりました。このような森林保護策には、城下町の建築資材を確保するほかに軍事目的があったと考えられています。
 このころ、徳島藩には阿波水軍という一団があり、全国屈指の海軍力を誇っていました。城下の安宅は水軍の軍艦を確保する軍港として栄え、大勢の船頭や加子が住んでいたといいます。
 そして軍用船の用材を確保しておくために、森林内の大木が詳細に報告されました。とくに大切にする樹木を真木(ケヤキ、モミ、ツガ、スギ、ヒノキ)、五木などと呼び、計画的な伐採が行われました。
 ちなみに阿波水軍の造船廃材は船大工に払い下げられ、彼らが内職として始めた、げた、建具づくりは後の徳島市での木工家具製造へと発展します。

 さて、阿波水軍が活躍した徳島県の地勢は一方では海軍の発達を促しました。
 古い室町時代の古文書[文安2年(1445)兵庫北関入船納帳]には、現在の神戸港付近に一年間に阿波の船が122回も入関したと記録されています。このうち海部船籍のものが半分近く、海部のほか南部船籍のものが九割を占めていました。船には藍や穀物、海産物のほか、たくさんの材木や槫(屋根ふき材)が積まれていました。さらに鎌倉時代までさかのぼると、京都下鴨神社の造営に木頭産材を寄進したという記録[天応2年(1320)那賀庄内大由郷文書]があります。これらのことから県南部は木材の一大産地であり、古い時代から近畿へ向けて木材を運んでいたことが分かります。

 ところで、徳島県には国有林が少なく、県全体の森林面積の5%程度しかありません。廃藩置県に先立つ1869(明治2)年、徳島藩は独断で藩有林を民間に払い下げてしまったからです。このあたりの事情は林政史のなぞとされ、確かなことは分かりませんが、維新後、本県には民有林林業が発達することになりました。

昭和10年頃の製材

 昭和初期には、那賀川河口に西日本有数の製材産地が形成されます。木頭林業の杉を原料としてひかれた薄板は阿波の三分板と呼ばれ、阪神市場で家屋の外壁材やへい回り板の八割を供給するまでになります。当時は不況期でしたが、薄くかつ高速で製材するという、いわば技術革新によってシェアを伸ばしました。

昭和初期の那賀川の流材

  「徳島すぎ」の原点には海を越え利用されてきた歴史と、民有林を支えた人々のエネルギーがあるようです。